レイヴン先生の背中が忘れられない。寂しそうな背中。泣きそうな背中。抱きつきたい背中。 愛おしい背中。遠い背中。あたしが触れることのない背中。 クリスマスが終わってしまえば、すぐに大晦日がやってくる。あっという間に年が明け、あ たしは受験戦争へと本格的に参戦することになる。ああ、めんどくさい。 受験が終わって、これまたあっという間に卒業して、大学入って、これが噂の大学ライフか なんて言うのだろうか、あたしも。そういうもんなのかなあ。あたしも普通の波にのまれて しまうのだろうか。いやだなあ。なんか、いやだ。そんな波にのまれたくない。 だからって、あたしにできることは、ただ波に身を任せることだけなのだけれど。 ひたすら過去問と問題集、単語帳と向き合う毎日。ふと今までの、様々な出来事が頭をよぎ り、回想に頭をつっこんでぼーっとする。それはそれは、レイヴン先生ばっかりで、ほんと にあたしは先生のことしか考えてないんだなあと1人苦笑してしまう。 もっと自分が大人だったら。大人だったら、もっとうまくやれたのかな。恋にうまいもへた もありゃしない。だけど、人っていうのは大きさは違えども、後悔をして生きる生き物だか ら、あの時ああしていればと思ってしまう。いくら過去を振り返っても、そんなことは無意 味で、それを今後に活かせっちゅー話なのに、後悔する。 まあ、あたしがまだ高校生という点はかえられないので、大人だったらとか思うことはくだ らないことこの上ないなって思う。 クリスマスのことだってそう。あの時、先生の胸に飛び込めば、何かが変わったかもしれな い。近くにいる先生に声をかけることもできず、ただ泣くことしかできなかったあたし。 大人だったら、あの状況を自分に有利な方へ仕向けられたかもしれない。考えたらキリがな い。目を瞑れば、繰り返される涙。泣くな、笑え。過去の涙に負けるな笑顔。 「来年こそは強くなろうね、自分」 過去を振り切って、また紙に向かう。 ◆◆◆ ガラでもない真面目を貫いた冬休み。高校生活最後の冬休みだというのに、あたしったら 真面目な受験生をやってしまった。なんてつまらないことをしたんでしょうね。過ぎたこと を嘆いても、何も始まりはしないのだが。あ、でもユーリ先輩に差し入れとかもらったわ。 華の高校生がはんてん着て、髪もぼさぼさで、色気むんむんのイケメンユーリ先輩とばった りですわよ。いや、ばったりっていう表現はすごく間違っている。だって、先輩はあたしの お家に来てくれたからね!わざわざ!あたしのためとか、やべえよ、こりゃあ告白でもされ ちゃうのかい。そうなのかい!あたしってばなんて罪な女でしょうとか思ってたら、口に出 てたらしくて、久々のアイアンクローをいただきました。それもまた愛。その時の模様を少 し話したいと思いまっすん。 「あらやだユーリ先輩じゃないですか」 「よう」 「もう今年も終わりますが来年もどうぞよろしくおねがいいたします」 「おう」 「それではまた」 「まてまてまて」 「なんですか!あたしを引き止めちゃったりして!いやだよ!すきなの!?困る!」 「……」 「あだだだだだ」 「お邪魔します」 「2発目のアイアンクローからのお邪魔しますとかコワイ!でもどうぞあがってくだしあ!」 逆らえないわ!どうせユーリ先輩には逆らえないわ!これが主従関係というやつか…。 「これ、土産」 「お菓子だわーい!」 「ばあちゃんと一緒に食べな」 「はあい!ちなみにおばあちゃんはもう夢の世界なので、どうぞごゆっくり!ささ、こたつ にでも入ってくださいな」 「ん」 ユーリ先輩の手土産をごそごそしているうちに、先輩はおこたに入る。その丸まった背中に 飛びつきたい。そして長い髪をかき分け美しいうなじをあらわにしてかぶりつきたい。変態。 この変態!あたしは今、心底自分にガッカリした。失望した。むしろ絶望した。でも一応、 かぶりついていいか聞いてみると、「死ぬか」と言われたので、うそですって言っておいた。 お茶その他を用意して、あたしもこたつにすべりこむ。あー、あったかい! 「粗茶ですが」 「ご丁寧にどうも」 お茶をずずっとすすりながら、はんなりしました。こたつっていうのはなんてすばらしいの でしょうね。毎度毎度思うことだが、こたつを考えた人は天才だね!世の中の受験生も、問 題集にかじりついてないで、こたつのようなすばらしいものを発明しなさいよね。その言葉 は自分にはねかえってくるけどね。デッドボールや! 「してユーリ先輩や。もう年が明けるというのにどうしたというのです。こんなところにい てよいのですか。女子力もへったくれもないあたしなんかと年を越してもよいのですか!」 「それ何キャラ?」 「最近、戦国時代の姫様に仕える侍女のモノマネがマイブームで」 「あっそ」 「それで、ほんとにどうしたんですか?大学生活を謳歌しているだろうユーリ先輩が、冴え ない後輩と2人っきりで年を越すなんて!…すてき!」 「お前が家に引きこもってるってエステルが心配してたぞ」 「はい?」 「真面目に勉強して、おっさんの話もしないし心配なんだと」 「エステルが、そんなこと…」 「おっさんと何かあったんだろ?」 「まあ…」 「それで、忘れたくて勉強に打ち込んでるのか」 「うむ…」 こうも早く真面目な話になるとはびっくりです。さっきから何度も言っているけど、1時間 ほどで新しい年がやってくる。それなのに、どうしてこんな重い話をしなくちゃいけないん だか。それともなにか?あれなのか?今年中にレイヴン先生への想いは置いていきなさいよ ばかもの!とかそういうこと?そういうことだったら、それはちょっと厳しいかもしれない よ。あきらめると決めても、こんなにも大きな“すき”を1時間そこらで置いていけるはず がないんだから。ちょっとやそっとでどうにかできる気持ちじゃないんだよ。自分でも持て 余してしまうほど、大きく育ってしまった気持ち。もう自立できちゃうくらいの大きな大き な気持ちですもの。 「先輩は、どう思うんですか?」 「おっさんにフラれた」 「オブラートに包むとかはないんですね、わかります」 「しかも、普通にフラれたわけじゃない」 「はい?どゆこと?」 「あのおっさんのことだから、余計なこと言ったんじゃないのか」 「あはは…正解!」 「お前は、フラれたことより、その余計なことに傷ついたんじゃないのか」 「…そうですね。さすがユーリ先輩ですな!」 「無理に笑うな、ばか」 「……」 「よく、がんばったな」 「…ッ」 レイヴン先生とはまた違う大きな男の人の手で、頭をやさしくなでられる。 どうして、あたしの周りの人は、こんなにもやさしいんだろうな。あたしなんかを甘やかさ なくてもいいんだよ。あたしなんかを、甘やかさないでよ。これ以上弱くなったらどうする んだよ。ただでさえ、こんなにも弱いのに。 でも、今だけは弱くてもいいのかな。今年中に弱虫のあたしを置いていくから。だから、今 だけは弱いあたしで、泣いてもいいのかな。 だいすきな先輩に、だいすきな先生の話を泣きながら話しているうちに、いつの間にか年が 明けた。その時、あたしの涙は、もう止まっていた。 ◆◆◆ しんみりした年末はもうおしまい!年が明けたからには受験受験!あっという間に受験受験! こわいこわい!がんばれ自分!とかなんとかで、センター試験いってきますん。いや、正確 には行ってきました。あっという間だね!月日は人が思うよりあっさりと過ぎるもんだ。 いやだ、あたしってば最近古典をつめこんだからちょっとカッコイイ頭になってるよ。中身 の話だからね。外見がカッコイイ髷ついてるよとかじゃないからね。そんな形から入ってな いからね。とかどうでもいいね。 で、まあ、結果はどうだったの?という話ですよね。気になるよね。自己採点やったよね。 そしたらまあ、うん。 「次があるよ★」 「どうしたんです?」 「いや、ちょっと世界の声に応えていたのさ」 「そうですか」 「うん…」 というわけで、あまり芳しくなかった。そういうもんだ、人生なんて。うまくいくばかりじゃ つまらないでしょ!そうだそうだ!もっと言ってやれ!…勉強しよう。 いや、その前に言い訳をさせてください。とりあえずちょっとした言い訳を! あのね、実はね、今年からセンターの英語の形式が変わったんだよ。つまりね、去年までの 過去問を嫌というほどやった身としましては、びっくり仰天を通り過ぎてこの裏切り者!と いう気持ちになったわけですよ。今年から変えるとかありますか?変えるなら変えるって言 いなさいよ!動揺しすぎてすべてが吹っ飛んだわ!吸引力の変わらないただ一つのうんたら 並の吸引力でもってかれたわ!ありがとう!シネ! 気持ちを切り替えてがんばれ自分。今は受験をどうにかしないといけないのよ。今のあたし には受験しか残ってない。これしかないんですよ、ちくしょう。 あたしには受験しかない。だからって焦ったて仕方ない。受験は1人で乗り越えるもの。 あたしがひたすらがんばるしかない。わかってるのに、落ち着けって唱えているのに、周り の子が受験を終えて羽を伸ばす。ついには、エステルまでが合格した。すごくおめでたいこ となのに、笑顔でおめでとうって言ってるのに、心はいらついて、すごく自分が醜い存在に 思えて悲しくなった。1人焦るあたしに、誰も気がつかない。気づいてほしくない。こんな 弱い自分。こんな醜い自分。気づいてほしい。弱い自分に。寂しくて仕方なくて、泣いてし まいたい自分に。相反する自分がいつもぶつかり合って、どうしたらいいかわからない。 弱虫な自分は、置いてきたはずなのに。やっぱり人はすぐ変われないっていうのかい。 なんて世知辛い世の中なの。文句を言っても仕方ない。寂しくても1人だ。前を向いて進む しかない。後ろなんて向いたら負けだ。あたしは強い子。そうだ、強い。 「なにやってんだか…」 自分の部屋にこもって、イライラしながらペンでノートをたたく。はかどらないったらありゃ しないよ。壁にかかっているカレンダーを見る。すでに1つ落ちた。こういうのって、落ち てはじめて実感するんだよね。不合格という文字を見て、一瞬で嫌な汗をかいた。こわい。 あたしだけ、受からなくてずっとこのままだったらどうしよう。浪人したらどうしよう。 そもそも浪人してまで大学に入りたいのか。こわくてこわくて、仕方がなかった。特別行き たい大学があるわけではない。中堅に入れさえすればいい。でも、それにさえ受からなかっ たらどうすればいい。これは罰があたったのか。ああ、もういやだ。 鼻がつーんとして、じわっと涙が浮かぶ。泣いたところでどうにもならないっつの。泣いて るヒマがあれば単語の1つでも覚えろってのよ。そうは思うけど、嫌で嫌で仕方ない。やり たくない。どこかへ逃げてしまいたい。靴も履かずに、冬の夜に溶け込んでしまいたい。 だめだ。がんばれ自分。がんばれがんばれがんばれがんばれ!それしかないんだ、がんばる しかない。 「あー……」 もう1度カレンダーを見る。今日は、2月13日か…。明日は学校だ。3年生は受験メイン なので、登校日も少なく、来ても来なくてもいいという受験がんばれ応援システムつきです。 余計なお世話よ!って、あれ13日?明日は14日…。14日か。14!?バレンタインだ。 ま、関係ないけど。受験が終わった人なら最後のバレンタインよ!とかきゃっきゃうふふで きるかもしれないけど、あたしはまだだからどうせ関係ない。関係ないもん。 「……」 そう、関係ない。愛の日なんて全然関係ない。関係ないけど、関係ない。そうなんだけど。 わかってるけど、だけど。 「……あー!息抜きだ!これは息抜きなんだ!」 1人で言い訳をして、上着を羽織り、外へ飛び出した。 近くのスーパーに駆け込み、バレンタインの特設コーナーに行き、目につくものをカゴに投 げ込む。会計すると、家まで走り、キッチンに駆け込む。それからは夢中で作った。 どうしてこんなことしてんだろって思いながらも、手は止まらなかった。 作り終わった後、そこにあったのは、甘さ控え目のマフィン。バレンタイン用にラッピング して手作り感満載。 「あたしはほんとにばかだ」 レイヴン先生にあげる気満々じゃん。あげられるはずがないのに。ばかだ。本物の、ばかだ。 震える手でラッピングしてあるマフィンを掴む。 ……捨ててしまおうか。そう思った。でも、心の底ではそんなこと思ってない。あたしは、 自分の心の中でも嘘をついた。誰もあたしの心なんか見えないのに、それなのに、あたしは 嘘をつく。ほんとは違うことを考えているのに。明日、先生にどうやって渡そうか。バレな いように渡すにはどうしたらいいか、考えてる。捨てるなんて思ってない。外へ飛び出した 時から、先生に渡すことしか考えてない。あきらめが悪すぎてもうどうしようもない。 ただ、先生にはバレずに渡せたらいいなって思う。 ◆◆◆ 「おはよ、エステル」 「あ、おはようございます」 「いやー、なんか会うの久しぶり?ってこともないか」 「…」 「うん?」 「大丈夫、ですか?」 「なにが?」 「すごく疲れた顔をしています」 「そりゃー受験生だもん!仕方ないさ!」 「でも…」 「それよりもさ、今日はバレンタインだよ!というわけで、エステルにあげる!まあ、今年 は忙しくて手作りじゃないんだけど、許してちょ!」 「あ、!」 「他の子にも渡してくる!」 「……」 ごめんね、エステル。あたしは自分を嫌いになりたくない。これ以上、弱虫になりたくない。 言いたいことはわかるよ。あたしのこと心配してるのもわかる。でも、今のあたしはうまく ごまかせそうにはないから。だから、ごめんね。 レイヴン先生を久しぶりに見た。目が合うと、心が折れてしまいそうだから、あまり直視し ないようにする。それでも、先生の声を聞けるだけで、泣きたくなった。 登校日と言っても、朝のHR以外は、ほぼ自習。なので、クラスの女の子は、HRが終わっ た途端にレイヴン先生にバレンタインのチョコを渡しに行く。 「先生!これ、チョコ!甘さ控えめのチョコなんだから食べてよね?」 「あー……気持ちはうれしいけど」 「どうしてー?去年はもらってくれたじゃーん!」 「いやー、去年より甘いものはちょっとだめになっちゃったのよ。ごめんね!」 「あ!先生ってばー!」 そう言うと、レイヴン先生は逃げるように去っていった。 先生が困った顔で逃げる時、目が合った。思わず目を逸らす。しまった、と思いもう1度先 生の方を見ると、眉を寄せて目を伏せながら去っていくのが見えた。 なんでそんな顔してんのよ。ムカツク気持ちと、悲しい気持ち。あたしの方が、と言っても 無意味。あたしの気持ちは先生に無関係。無意味でしかない気持ち。 やっぱり先生はずるい。すごく、ずるい。先生はきっとあたしが卒業してもずっと隠し続け るんだ。それでもいつかは、そんな先生の気持ちをすくってくれる人が現れる。ずるい。 ずるいよ。誰よりも、あたしはその人になりたかったのに。あたしじゃ無理なんだから。悔 しいよ。 先生の話、男子の話で盛り上がる教室から抜け出し、カバンを持って、静かな自習室に向か う。なんだか、すべてがあたしに無関係な気がしてしまう。あたしだけが、みんなと違う場 所に立っている気がしてしまう。どうしてだろう。今のあたしじゃ、なにもわからない。 自習室に着くと、一番奥の隅っこの席に座る。 カバンから勉強道具と、ipodを出す。その時、ラッピングされたマフィンが視界に入る。 一瞬、手を止めたが、すぐにチャックをしめる。 音楽を聴きながら、勉強をはじめる。問題を解く。手が動いている。意識はカバンの中。 あたしの中で、唯一鮮やかなラッピングが目に焼き付いた。問題を解く手は、動いては止ま り、動いては止まりを繰り返す。 「……だめだ」 ほんとだめだ。最近のあたしはずっとだめ。最近、とは言うけど、ほんとはずっと前から、 学園祭からずっとずっとだめ。 もう2月中旬。来月には卒業。こことお別れ。先生と、ほんとのお別れ。見ることも叶わな くなるし、声だって聞けない。もしかしたら、一生会うこともなくなるかもしれない。 あたしもいつかは忘れちゃうのかな。そんな気がこれぽっちもしない。絶対忘れられない。 絶対なんてもんは、この世に存在しないけど、これだけは絶対だ。あたしの中の唯一の絶対。 あたしは、小さなメモを取り出した。 (レイヴンせんせいへ) 直接渡すことができない、このマフィンにメッセージを添えることにした。今さらなにを、 そう思う。最初は、あたしだってこともバレたくないと思った。でも、直接渡すこともなく、 あたしってこともわからないままで、それでいいのかって言われたら、やっぱりそれは。 最後の最後くらい抗ってもいいんじゃないかって思った。どうせ、届かない最後の叫びなら、 最後くらい。…いいよね。 ◆◆◆ 久しぶりに来た、秘密の花園。先生は変わらず毎日通っているのだろうか。 いつもの場所へとゆっくり近づく。すごく懐かしいような気持ちでテーブルを撫でる。ああ、 ここにはたくさんの思い出があったんだなあ。あたしは、もう新しい思い出を作れないんだ。 切ない笑いがこぼれた。 いつも先生が座っていたイスに座る。先生はいつもここでなにを思っていたんだろう。どん なことを思いながら、あたしと話していたんだろう。 「やっぱり、座っただけじゃわからないなあ……」 先生がいつも座っていたイスに、そっとマフィンを置く。 先生が来なかったら、きっと腐っちゃうんだろうな。あたしの気持ちも一緒に朽ちるんだろ うか。先生が、ここに来ますように。あたしの最後の気持ちを受け取ってくれますように。 誰もいない。今日も、いない。ずっと、いない。 「……当たり前、か」 まだ寒い冬の空気に染まった“秘密の花園”。いつか、あの子がそう言っていた。 『ここは、秘密の花園って言うんですよ!』 『秘密の花園?ちゃんって、意外とロマンチスト?』 『乙女はみんなロマンチストです!どの季節もいいけど、ここにはやっぱり春が1番似合う!』 『まあ、なによりここは先生とちゃんの秘密の場所だものね!』 『秘密の花園の方が、なんか秘密っぽくていいし』 『たしかに』 『でしょー!そんなわけで、先生も心の中で秘密の花園と呼んでもいいですよ。許す!』 『許された!』 『あはは!』 秘密の花園には、春が似合う。でも、あの子の方が春は似合う、というよりあの子自身が春 のようだった。いつも元気で明るくて、一緒にいると温かい気持ちになって、しあわせだっ た。大切だって思った。本当は、ずっと前から大切で、愛しくて離したくなかった。きっと、 あの子が俺に対して抱く気持ちよりも、ずっとずっと愛しいと思ってる。 何度も何度も、泣きながら想いをぶつけてくるあの子に何度揺らいだことか。俺だって、俺 の方がずっとあの子を大切に思ってる。それでも、受け止めることができなかった。 あの子はこれからたくさんの出会いをして、色んな経験を積んで、大人になっていく。 大人になっていくあの子を見るのがこわい。もっと離したくなくなるだろうから。 綺麗になっていくあの子を見るのがこわい。愛おしすぎて、どうにかなりそうだろうから。 俺以外の男と話すとこを見たくない。ばかみたいな嫉妬をしてしまうから。 あの子はきっと忘れる。いつかは、忘れる。この学園を出たら、外に一歩踏み出せば広い世 界があることに気付く。魅力的なものがたくさんある。こんな俺よりも、良い男は星の数ほ どいる。 (どれも、言い訳にすぎない) 言い訳に言い訳を重ねて、本当の自分を奥へ奥へとしまった。 本当の俺を見てほしくない。見てほしい。受け入れないで。受け入れて。 どうしてこんなにも臆病なんだろう。あの子は、何度だって想いをぶつけてくるのに。いつ も逃げる自分。こわくてこわくて仕方がない。どうやったらここから抜け出せるんだろう。 したいことと反対のことをして、結局傷つけて。何度涙を見たことだろう。全部俺のせい。 もうすぐ、あの子は卒業する。ここからいなくなってしまう。会うこともできなくなる。声 も聞けない。笑顔も見れない。それでも、前に踏み出す勇気もない。 『すきにならなきゃよかった』 あの子が言った。そう言われても仕方ないのに、息が止まりそうなほど胸に痛みが走った。 そう言ったあの子自身も傷ついた顔をしていた。それにまた、胸が痛んだ。どうしようもな い連鎖。すべては俺のせい。 苦笑しながら、いつものイスに座ろうとして違和感を覚える。 (甘い、匂い) 懐かしいような、そんな甘い匂い。そんなはず、ない。それなのに、あの子がここにいたん じゃないかと思う。 イスを引くと、その上にはラッピングの包みが置いてあった。それを震える手で掴む。 「……、ちゃん」 今日はバレンタインで、でもあの子がくれるわけないって、そう思って。 他の生徒がバレンタインだから、と渡してくるのを全部断った。受け取ってしまったら、ま たあの子を傷つけるような気がして。ただの自己満足だ。だからってあの子がくれるわけな いとそう思っていた。でも、これは…ちゃんだ。絶対の確信があった。あの子しかい ない。 ラッピングを開けようとすると、リボンに挟まっていた紙がはらりと落ちる。 小さなメモに、あの子の文字でこう書いてあった。 (レイヴンせんせいへ 最高の恋をありがとう。 卒業しても、やっぱりせんせいが、ずっとずっとだいすき。 信じなくてもいい、あたしはただあなたがすき。 忘れないでください。せんせいをだいすきな女の子がいたって。 あたしは、ぜっっっったい忘れてやらないからね! 弱虫で臆病で、かわいくてだいすきなレイヴンせんせいを。 より) 俺はばかだ。本当にどうしようもないくらいのばかだ。 震える手で口を押えた。出ないと、声がもれてしまいそうだった。30を過ぎた男が、泣い ていた。子どもみたいに、ボロボロ涙を流した。 (あの子は、とっくの昔から弱い俺を受け入れていたのに) それでもなお、すきだと叫んでいた。それを俺は何度も何度も拒絶した。なんてばかなこと を。もうこんなにもすきですきで仕方ないのに。俺は一歩踏み出すだけで、それだけでよかっ たのに。何をこわがっていたんだ。何もこわいことなんかない。ただ、あの子に伝えればい い。俺も、苦しいくらい、すきですきで仕方ないって。それだけでいい。 遅くなってごめん。ばかでごめん。弱くてごめん。まだ間に合う?俺の気持ちを聞いてくれる? 「―――ちゃん」 カウントダウンは動き出す。 |