「俺は、ちゃんが思ってるほど、良いやつじゃないのよ」 「どうして、そんなこと言うの?」 「こんなだめな男につかまってほしくないからかね……」 「そんなの、わたしが決める。レイヴンが決めることじゃない」 「そうかもしれないけど、でも、俺はちゃんを受け入れられない」 「それでもわたしは……」 「これは、きっとずっと変わらないから、 もう俺のことなんてほうっておいて? おっさんからの、おねがい」 「……そうやって、逃げないでよ! ちゃんと、わたしを見てよ……!」 「ごめん……」 どうしてそんなこと言うの。どうして自分で決めちゃうの? わたしが想いを貫くか、そうでないかは、わたしが決めることなのに。 そんなの、決めないでよ。決めつけないでよ。わたしの想いを否定しないで。 悲しみが、胸を抉った。 朝、悲しみに息が止まりそうになって、目が覚めた。 (あれは、レイヴンが裏切る前の……) わたしがレイヴンに、恋とか愛とかそういうものを抱く以前に、懐いていたことを 彼は知っていた。 そんなわたしの気持ちが痛くて、レイヴンはあんなことを言ったんだろう。 わたしはそれを聞いて、いや、その前から薄々勘付いていたんだ、自分自身の気持ちに。 だからこそ、レイヴンと話しているうちに、こんなに胸が痛いのは彼がすきだから なんだ、と理解した。 あの時のことを思い出すだけで、こんなに胸が痛いんだね。いつまでも、忘れること のできない悲しみなんだろう。わたしにとっては。 などと、思いながら、昨日のレイヴンとのやりとりを思い出す。 レイヴンとの大切な思い出がわたしの中から消えてしまった、あの違和感。そして、 そのせいでレイヴンを傷つけたこと。 あの後、配達から戻ってきたレイヴンは普通の顔でいつも彼に戻った。でも、彼の心 に、きっと傷は残っている。確実に傷つけたことはわかっているのだから。謝らなく ては、と思ったものの、思い出せない大切な記憶。思い出してもいないのに、謝るの は失礼だと思い結局謝ることもできなかった。 確実に何かが滑り落ちていることがわかっているのに、時は巡り、進んでいく。 * * * 開店の準備が終わり、カウンターで一息つくと、カランカランと、来客を知らせる音 が鳴った。レイヴンが来たのかな、と少し緊張気味に来客に声をかける。 「いらっしゃ……」 「よう」 「え……、ユーリ?」 「ホントに店開いたんだな」 「あ、うん。……って、え!? 本物?」 「おいおい、仲間の顔、もう忘れちまったのか?」 「そうじゃないけど、レイヴンに続いてユーリまで来るとは思ってなかったから」 「おっさん、ダングレストに来てんのか」 「うん、ユーリは知らなかったんだ。じゃ、ほんとに偶然なんだね」 「そういうことだろうな。まあ、他のやつは結構会う機会があるけど、 お前はそうじゃないし。寄ってみたわけだ」 「なるほど。じゃあ、あらためて、いらっしゃい」 「ん。いらっしゃいました」 ユーリは店をぐるって見回し、良い店だなと小さく笑い、カウンター席に腰をかけた。 わたしは紅茶を淹れて、ユーリに出す。それと、角砂糖も忘れずに。 「隠居生活、楽しんでるみたいでなによりだな」 「隠居とか言わないでよ」 「お前はもっとアクティブなのかと思ってたから、意外だったんだよ」 「まあ、そうだね。でも、楽しいよ」 「そうだな。お前の顔見ればわかる」 「そっか」 ユーリは相変わらずで、なんだかうれしくなった。 彼を見ていると、旅をしていた時のことを思い出す。 「で、おっさんは結構来るのか?」 「そうだね。ほぼ毎日来てくれてるよ」 「毎日って……通い妻か」 「やだな、レイヴンは男の人だよ?」 「……真面目に返すなよ。まあ、それはともかく、そろそろ来るってことか?」 「たぶんね」 と、言ったところでカランと来客の知らせる音が鳴る。 噂をすればなんとやらだな、と意地悪そうに笑うユーリに、なぜか苦笑してしまう。 来客は、予想通りレイヴンだった。 正直、昨日のこともあって少々気まずく思っていたので、ユーリがいてくれて助かった。 「あっれー? 青年がいる!」 「通い妻してるらしいな。おっさん」 「やだ、通い妻だなんて! おっさん恥ずかしい!」 「……うん、そうだね」 「……まあ、いつものことだからいーんじゃないか」 「え? なにこの空気。おっさん悪いことした?」 そんなレイヴンに苦笑しつつ、カウンター席についた彼にお茶を出す。 「青年も来ちゃったかー」 「そりゃあな、一応オレも心配してたもんで」 「え? わたしの心配? なんで?」 「お前が店開くんだから、心配するだろ。 不器用ってわけじゃないが、器用でもないだろ」 「なにそれ失礼!」 「まあまあ、青年の照れ隠しよ、照れ隠し!」 「おっさんはもっと隠した方がいいんじゃないか」 「どういう意味!? というか、何を隠したらいいの!?」 「心配してくれるのはうれしいけど、ちゃんとやってるよ? わたし」 「なら、いーけどな」 「青年は意外と心配症!」 「かわいいところもあるね、ユーリくん」 「……にやにやすんなよ」 心なしか照れたユーリを、生温かい目で見るわたしとレイヴン。 こういうの、すごく久しぶりだな、と旅が懐かしくて愛おしくなった。 * * * 「そんで? おっさんとはどうなんだよ」 「は?」 久しぶりのユーリとの再会に気を利かせたレイヴンは、自ら進んで配達を引き受け 今は席を外している。 そして、そんな折に突然のユーリの台詞である。 「ど、どうってなに? 意味わからないんですけど」 「最近ずっと一緒にいたんだろ?」 「……だからなに」 「進展はあったのかって聞いてんだよ」 「いや、だから、その進展ってなに!?」 「お前、おっさんが好きなんだろ」 「ばっ……!?」 「まだ焦らしてんのかよ」 「焦らすも何もないし!」 バレてた!ユーリにはすっかり全部バレてた!お見通しだった! すでに動揺MAXのわたしは淹れたばっかりのアイスティーを一気に飲み干した。 かき氷を食べた時みたいに、頭がキーンとなり、胃が冷えたのを感じた。 「早くくっつけよ、めんどくさい」 「くくくくっつくとかないし!」 「当事者ってのは、なんでこうなんだろうな」 「だ、だって、わたしはまあ、その、あれだけど」 「好きだけど?」 「いちいち好きとか言わないでよ!」 「はいはい」 「……で、わたしはそうでも、レイヴンはそういうんじゃないよ」 「なにが」 なにがって、こいつ、みなまで言わせようとするなんて、鬼だ。 乙女の気持ちってのがわからないのかね。色男のくせに! 「だから、レイヴンはわたしのこと、そういう好きじゃないって言ってるの」 「それ、本人に聞いたのか?」 「聞いてないよ」 「じゃあ、なんでわかるんだよ」 「わかるもんはわかるの」 「ふーん」 「ふーんってなにさ! もっと反応してよ!」 「……いや、真面目な話、おかしくねえか」 「なにが?」 怪訝な顔をするユーリに、疑問を口にするが、予感がした。 わたしは、また――――。 「オレは、レイヴンがに気持ちを伝えたって話を聞いたんだが」 「え――――」 毛穴という毛穴から、冷や汗がどっと出た感覚。 まただ。また、わたしは“忘れて”しまったんだ。 「旅がひと段落した時に、お前に気持ちを伝えたけど、 しばらく待っててほしいって言われたって」 「――――」 「今までの俺だったら、絶対もうだめだって悲観してたけど、今はいくらでも 待てるのよね、とかうれしそうに話してた」 「そんな……」 「お前にも聞いたら、ほんとは今すぐ頷きたいけど、焦らしてやるんだって 言ってたじゃねーか」 「……うそ」 「こんなことでうそついてどーすんだよ」 目の前がぐるぐる回って、なにがどうなっているのかわからない。 わたしは、なにが、どうして、なにを、もうなにもわからない。 「おい、? 顔、真っ青だぞ」 「わ、たし」 「……おい?」 「覚えて、ないの――――」 「は?」 「そんな話、覚えて、ない」 「覚えてないって、お前」 「ねえ、わたし、最近おかしい……」 わたしの血の気の失せた顔を見て、ユーリは少しずつわたし自身に起こった異変を 聞き出した。 「記憶が抜け落ちてる、か」 「……」 「これは、一つの憶測でしかないけどな」 「……うん」 「の抜け落ちている記憶は、お前にとっての幸福な記憶」 「……」 「幸福だと感じた記憶ばかりが抜け落ちてるんじゃないか。 オレもお前にとっての幸福の記憶をすべて聞いてるわけじゃない」 「……うん」 「だから、これですべてを決めつけるのもあれだけどな」 「……」 「でも、このままだと、の中から幸福な記憶、特にレイヴンに関する記憶だな」 「……っ」 「それが徐々に消える。そんで、残る記憶はお前が悲しいと感じた記憶だけだ」 悲しみ、だけか。 わたしの中には悲しみしか残らないの?消えちゃうんだ、しあわせなものは全部。 悲しい記憶でも、すべて消えるよりはいいのかな。胸を痛ませることができるだけ、 わたしはしあわせなのかな――――。 「まだなんもわからない状態だから、全部決めつけるのはあれだな」 「そう、だね」 「そういう病気がないか、オレの方でも調べてみる」 「……ありがとう、ユーリ」 「お前もあんまり無理すんな。どんな病気かもすぐ見つかる。んで、すぐ治る」 「うん……」 「だから、そんなあからさまに落ち込むな。おっさんが心配すんぞ」 「わかってる。わたしも自分で調べられるだけ、調べておく」 「おう。オレもなにかわかったら、また、ここに来る」 「うん、ありがとう」 そう言って、わたしの頭をぽんとなでると、ユーリは店を出た。 わたしは、静かになった店の中で、なにも考えられずにいた。 ただ、漠然と、自分は消えてなくなってしまうんだろうな、と思っていた。 ユーリが帰ってからしばらくして、レイヴンが配達から帰ってきた。 「ただいまー! もう、帰り道で色んな人につかまっちゃって、遅くなっちゃた」 「おかえり」 「って、あれ? 青年、帰っちゃったんだ」 「……うん」 「ちゃん? どうしたの?」 「なにが?」 「泣きそうな顔、してる」 そう言って、わたしの近くに来たレイヴン。彼の香りが鼻をくすぐる。 ああ、この瞬間も忘れる日が来てしまうのかな……、と思うと鼻の奥がツンと痛くなる。 心配そうにわたしの名前を呼ぶレイヴンの胸に、とん、と頭を預ける。 「なんでもないよ――――」 「……ちゃん」 レイヴンはただ、黙ってわたしの背中に手を回し、胸に引き寄せた。 (忘れたくなんか、ないよ……) 忘れるくらいなら、もうしあわせと思いたくない。 そう思っても、今この瞬間でさえ、しあわせでどうしようもなかった。 (気付いた時には、滑り落ちるのみ) |