苦しい。苦しい。苦しい。
心臓がまるで自分のものではないようだ。そう言う人の気持ちがわからなかった。
しかし、今ならわかる。いや、わかるわけではない。この瞬間、自分の心臓がその状態に
陥っているのだ。それでも理解できない。わからないのだ。どうしてわたしの心臓はこう
もぎゅうぎゅう軋んでいるのだろうか。どうして?どうしてこんなに苦しいのだろうか。
頭では冷静でいるのに、わたしの心臓はまるで混乱している。心臓と脳が別々の生き物の
ようで、それぞれが意思を持っている。
ああ、わたしは恋なんかしたくなどないというのに。わたしの心臓はそれを拒否している
のだ。恋なんてするべきではない。そんなもの、今の自分には必要ない。芽生えかけてい
るその感情を捨ててしまえ。脳はそう命令している。だと言うのに、どうやら心臓は言う
ことを聞く気がないらしくて困る。一体、わたしはどうしたらいいのだろうか。心臓と脳
は対立し、わたし自身の意思はただただ困り果てて、第三者のように首を傾げる。
そもそも、この胸を占める塊は一体何なのかいまいちわからない。つまりは、正体がわか
らないということなのだが。恋ではないかと嫌々ながら考えてみたものの、本当にそうな
のか確信がない。もしかしたら恋ではないかもしれない。ただ、この胸にある何かを持て
余していることは確かなのだが。
わたしの恋(仮)の相手は、旅の仲間であるレイヴンだ。彼はわたしよりも、14歳も年
上である。だからと言って特に文句があるわけではないのだが。そもそも、わたしと一回
り以上も年の違う彼に恋をするという理由が見つからない。今までそんな要因があっただ
ろうか。とりありず巡らせた記憶の中にはそんなもの存在しない。だとするなら、わたし
は何故彼に対して胸を痛めなくてはならないのだろうか。とても理不尽でならない。
いくら考えたところで、わたし一人ではきっと答えは出せないのだろう。というのも、こ
の問題にぶち当たってから、かれこれ一週間になるからだ。毎日同じことを議題とし、議
論をしているというのに、脳内会議では結論が出る気配がこれっぽっちもない。ここはや
はり、仲間の誰かに相談するべきなのだろうか。
***
「わたしは恋をしているんですかね」
「え、いや、おかしくない?」
「何が?」
「話を聞くと、その、ちゃんがおっさんのことすきって言ってるように聞こえるん
だけど…?」
「そうなの?」
「違うの?」
「それがわからないから聞いてるんだけど」
「だからと言ってそれ、本人に聞いちゃう?」
「レイヴンに直接聞けばわかると思ったんだけど」
「でも普通はそこ、バレないようにするもんじゃないの?」
「さあ?」
「えええ」
こういうものは直接本人に聞いてしまった方が良いのかと思って、おそらくわたしの恋の
相手であろうレイヴンに聞いている、今現在の状況。本当はユーリにでも聞こうかと思っ
たのだが、どうせ最後にはレイヴンに聞かなくてはならないのだろうから、じゃあ最初か
らというような流れである。
久々の街で宿に直行し、それぞれが自分の時間を堪能している中、わたしはレイヴンを誘
い出しご飯を食べ、すっかり闇に包まれた空の下二人で歩き、たまたま海を眺め、ややあ
と聞いてみたのだが。やはり直接聞くのはよろしくなかったのだろうか。思いのほか困惑
しているレイヴンを見ると、なんだか申し訳ないような気持ちになる。さて、ここは謝っ
ておくべきか。
「ごめん」
「え?」
「レイヴンを困らせるつもりはなかったんだ」
「いや、別にそんな謝ることじゃないわよ?」
「でも困らせてしまったみたいだから」
「困っているというか…うん、驚いてるっていうか?」
「どうして?」
「だって、そりゃあねえ!その、そう言われていやな人はいないと思うし…うん」
「そうなんだ。でも、困っているわけじゃないのならよかった」
安心して小さく笑ってみせると、レイヴンはどこか照れたように視線を巡らせた。はて、
どうしたのだろうか。わたしは、いまいち人の気持ちを読むという行為が苦手のようだ。
急にそわそわし、うーやらあーやら呻いているレイヴンに首をますます傾げなくてはなら
ない。
「ちゃん」
「なあに」
「ちゃんは、その、俺のことすきなの?」
「さあ、よくわからない」
「えーと、じゃあ、おっさんのこと見るとどきどきする?」
「うん。胸が、変になる」
「じゃあ、おっさんが他の女の子と一緒だとどう思う?」
「エステルとかリタといるとこ見ても何も思わないけど、ジュディスにデレデレしてるの
を見ると無性に殴りたくなる。レイヴンを」
「あーそのー、仲間じゃない他の女の子と一緒だとどう思う?」
「胸が痛くなって、悲しくて、よくわからなくなる」
「俺と一緒の時、どんな気持ち?」
「楽しくて、嬉しくて、どきどきする」
「そっか。うん、そっかそっか」
「何かわかった?」
「ちゃんは、おっさんに恋をしています」
「…恋」
「そう、恋」
やはり、恋をしていたのか。わたしはレイヴンに恋していたのだ。だから、わたしの心臓
は脳がいくら止めても止まることが出来なかったのだ。きっと、心臓は脳が考えるよりも
手強くて、とても我が侭なものなのかもしれない。だから、わたしの心臓はいつまでもも
やもやしていたのだろう。脳が理解を示したとたん、恋という言葉に対して妙に納得出来
るのだから不思議だ。これで、心臓と脳の喧嘩も終わりを迎えたということなんだろう。
「…恋。じゃあレイヴン、わたしに恋をしてください」
「ごめん、それは無理かも…」
「そうなんだ、残念」
「いやそこはもっとつっこんで!」
「なんでやねん」
「違う違う!そうじゃなくて、おっさんはもう恋しちゃってるの!」
「ああ、そうだったの。気が付かなくてごめんね。誰に恋してるのか聞いてもいいの?」
「当たり前でしょ!…だって、ちゃんに恋しちゃってるんだもん」
「へえ」
「ちょ、話ちゃんと聞いてる!?」
「うん、わたしに恋してるんでしょ?」
「まあ、うん、そうなんだけど…なんかこう、しっくりこないのはなぜ?」
「すきです」
「え?」
「恋をしたら告白するものなんでしょ?だから、わたしはレイヴンがすきです」
「うーあー…!」
恋をしたのだから、告白をきちんとしたら、レイヴンはあわあわした後にわたしを抱きし
めた。少し、苦しい。
「…俺も、ちゃんがすきです」
いつもより真面目な音を混じらせたレイヴンの声に心臓が跳ねた。ああ、もうわたしの心
臓は自由なのだ。だからこんなにも大きな音を立てて、その存在を際立たせているのだ。
抱きしめられた身体は熱が急上昇し、レイヴンの体温を感じ、それを理解するとその熱が
顔に集中しはじめたように思う。悩んでいた時の自分とは違い、全てが鮮明だ。脳も大人
しく心臓の自由にさせ、視界から見せる世界にすら変化を及ぼした。脳が心臓に贈った祝
いの証拠なのだろうか。わたしの世界は新しくなり、色がガラッと変わった。今までのど
んな色よりも鮮やかで、とても輝いてる。全てが愛おしいと思える。わたしはこんなにも
素晴らしい世界に生きている。
あまのじゃく